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東京地方裁判所 昭和62年(行ウ)85号 判決 1989年9月26日

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告に対し昭和六〇年九月二六日付けでした厚生年金保険法に基づく遺族年金を支給しない旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  訴外乙川一郎(以下「一郎」という。)は、厚生年金保険の被保険者であったが、昭和五八年三月六日、死亡した。

2  原告は、一郎の内縁の妻であり、厚生年金保険法(以下「法」という。)五九条一項に規定する「配偶者」に該当し、遺族年金の受給権者である。

3  原告は、昭和六〇年五月二一日、被告に対し、遺族年金の支給裁定を請求したところ、被告は、同年九月二六日付けで、一郎には戸籍上の妻乙川夏子(以下「夏子」という。)がいるので原告は法五九条一項に規定する「配偶者」に該当しないことを理由として、遺族年金を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。原告は、本件処分を不服として、昭和六〇年一一月七日、神奈川県社会保険審査官に対し審査請求をしたところ、昭和六一年二月一三日付けで棄却され、同年四月七日、社会保険審査会に再審査請求をしたが、昭和六二年四月一五日、棄却された。

4  しかし、本件処分は違法である。

(一) 原告と一郎との関係

原告と一郎とは、次のとおりの関係にあり、事実上婚姻関係と同様の内縁関係にあったものである。

(1) 原告は、昭和二九年に一郎が原告のもとに同居を求めて訪れて以来、一郎が死亡するまで、一貫して同居を継続し、一郎との間に、長女秋子(昭和三一年三月二二日生)、二女冬子(昭和三二年九月一四日生)、三女北子(昭和三四年八月六日生)、四女南子(昭和三六年九月一八日生)をもうけた。

(2) 原告は、一郎が、事業の失敗、夏子との不和から自暴自棄に陥って原告のもとに転がりこみ、原告の収入で競輪、競馬に走るなどし、挙げ句の果てに心中までを求めてきたのを思い止まらせ、二人の間の生まれたばかりの子供を背負って、夜中から屑拾いをし、売血して生活するなど、乞食同様の生活から一郎とともに人生の再出発をしたものであり、その後、一郎は、産業廃棄物処理やスクラップの売買をする乙川商店を設立し、電子機器の製造販売を営む乙川電子工業株式会社、電気音響機器用部品の製造をする乙川機電工業株式会社へと発展させることができたが、この間、終始、一郎のもとにあって精神的に同人を支え、その仕事を手伝っていたのは、原告である。

(3) 一郎は、原告を妻と認識し、親類、友人、隣近所との冠婚葬祭その他の交際や、取引先の接待などにあたって、常に原告を同伴し、妻と紹介していたもので、周囲の者も原告を一郎の妻と認識していた。

(4) 一郎の葬儀は、乙川電子工業株式会社の社葬として、長男の乙川二郎が喪主となって行われたが、原告が、喪主の挨拶の際、喪主の傍らで一郎の遺影を抱いた。

(二) 原告と夏子との関係

他方、一郎は、夏子と昭和二九年に別居して以来、死亡するまでの二九年間、一度も夏子と同居しておらず、また、一度も夏子宅を訪れたことも、手紙を出したこともなく、夫婦としての音信はなかった。

一郎及び夏子は、お互い、別居後において再び正常な婚姻関係に修復させる努力をなんらしておらず、また、その意思もなかったものである。

(三) 以上のとおり、原告と一郎とは事実上の夫婦であり、他方、夏子と一郎との婚姻関係はその実体を失い、全く形骸化していたのであるから、原告は法三条二項に規定する「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者」に該当する。

したがって、原告は、遺族年金の受給権を有するものであって、被告の本件処分は、右の認定を誤った違法がある。

また、法一条の定める保険給付の目的は、遺族の生活の安定と福祉の向上であるところ、原告は、一郎の死亡後、住居から追われている一方、夏子は、原告が一郎と働いて形成した財産を相続によって取得しているのであって、右の法の目的からすれば、原告こそ救済されるべきである。

よって、原告は、本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は否認する。

3  同3の事実は認める。

4  同4の(一)の冒頭の主張は争う。同(1)のうち、原告と一郎の間に原告主張のように秋子、冬子、北子、及び南子が生まれたこと、(2)のうち、一郎が乙川商店を設立したことは認める。(4)のうち、一郎の葬儀が乙川電子工業株式会社の社葬として長男二郎が喪主となって行われたことは認める。同4の(二)の事実のうち、一郎が昭和三〇年ころ、夏子と別居し、以来一郎が死亡するまで同居したことがないことは認め、その余は否認し、主張は争う。

同4の(三)は争う。

三  被告の主張

1  法五九条一項の「配偶者」について

(一) 法五九条一項にいう「配偶者」とは、民法七三九条及び戸籍法七四条の規定により婚姻の届出をした者のほか、婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者(以下「内縁関係にある者」という。)を含むものであることは、法三条二項の規定により明らかである。

右内縁関係にある者とは、婚姻の届出を欠くが、社会通念上夫婦としての共同生活を営んでいるものと認められる者をいい、その要件として、<1>当事者間に、社会通念上夫婦の共同生活と認められる事実関係を成立させようとする合意があること、<2>当事者間に、社会通念上夫婦の共同生活と認められる事実関係が存在すること、が必要である。ただし、右二要件を満たす場合でも、反倫理的な内縁関係にある者、民法七三四条(近親婚の禁止)、同七三五条(直系姻族間の婚姻禁止)または、同七三六条(養親子間の婚姻禁止)の各規定に違反するような関係にある者は、法三条二項所定の「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者」に該当しないというべきである。

(二) 届出による婚姻関係にある者が重ねて内縁関係とみられる関係に入った場合(以下「重婚的内縁関係」という。)に、法五九条一項の配偶者として、戸籍上の妻と重婚的内縁関係にある者といずれを認めるべきかは問題であるが、民法が一夫一婦制を採用し、婚姻の成立が届出により法律上の効力を生ずる法律婚主義を採っていること及び内縁関係にある者を年金支給の関係で配偶者として認めるに至った趣旨は、法律婚主義によって起きる欠陥を補い実情に即しめたものにしようとするにあることからして、届出による婚姻関係にある者を優先すべきことは当然であり、届出による婚姻関係がその実体を全く失ったものになっている場合に限り、重婚的内縁関係にある者について法五九条一項の配偶者に該当すると解すべきである。

(三) 右の「届出による婚姻関係がその実体を全く失ったものになっている」という状態は、一義的に定めることは困難であり、具体的事案について個々に認定するほかはないが、例えば、当事者が離婚の合意に基づき夫婦としての共同生活を廃止していると認められるが、戸籍上離婚の届出をしていないとき、あるいは、一方の悪意の遺棄によって、家族に対する生活費等の支給、音信などが全くなされず、その共同生活が行われているとは認められない場合において、当事者双方の生活がそのまま固定していると認められるときなどのように、客観的、主観的の面のいずれからみても、婚姻関係が実体を全く失い、その状態が長年継続している場合に、はじめてこれに当たるといえる。

しかし、別居生活の状態にあっても、当事者双方に離婚の合意がないとき、あるいは、一方の悪意の遺棄による場合でも、法律上の配偶者の生活費、子供の養育費等の経済的給付が行われ、音信または訪問がある場合には、届出による婚姻関係は実体を全く失っていないとみるべきである。

2  本件の事実関係について

(一) 一郎は、昭和一二年六月二二日、夏子と婚姻し、同人との間に長男二郎(昭和一六年七月三〇日生)、二男三郎(昭和一八年一二月一三日生)、長女四子(昭和二二年三月二一日生)、二女五子(昭和二四年六月三日生)及び三男六郎(昭和二六年二月三日生)をもうけた。

しかし、一郎は、名古屋の主張先で仲居をしていた原告と親しくなり、昭和三〇年ころから、夏子と別居するに至った。

(二) しかし、一郎は、夏子と別居していたものの、別居してから昭和三八年ころまでは、不定期ではあるが原告を介して夏子に送金し、昭和三八年ころ長男二郎、二男三郎が一郎の経営する乙川商店に勤めるようになってから昭和五七年三月までの間は、三郎を介して毎月四万円ないし一〇万円を、また、盆暮れには六万円ないし一〇万円を送金していた。そして、昭和五七年三月、乙川商店を有限会社乙川商店に組織変更し、三郎を代表取締役にしてからは、一郎は、昭和五七年三月の給与(支払は四月一日)から自己の給与のうち一〇万円を税金対策の点から三郎の給与に上乗せして三郎に支払った上、三郎を介して夏子に送金していた。

(三) 一郎は、昭和四八年ころ、夏子が子宮癌で入院した際に、その入院費用である約五〇万円を支払った。また、二女五子の高校進学、三男六郎の高校及び大学進学に伴う学資一切を送金しているほか、長女四子及び二女五子の婚姻に際しては、四子には婚姻家具を、五子には二五万円を、それぞれ贈与した。

さらに、一郎は、恩給の受給権発生時から死亡する昭和五八年三月まで、同人が受給していた軍人恩給をその生活費の一部として夏子に受領させていた。

(四) 夏子は、一郎と原告が、東京都豊島区要町に居住していた昭和三一年ころ、婚姻関係の修復のため、一郎を二回訪れている。

また、一郎は、二郎、四子、五子及び六郎の結婚式、夏子の姉、一郎の叔父及び二郎の義父の葬儀等の冠婚葬祭の際に夏子と顔を合わせている。

さらに、一郎が、事業の資金繰りのため恩給証書を担保に借金することにした際、恩給証書を夏子のもとに取りに行き、顔を合わせた。また、一郎と夏子は、昭和三八年ころ二郎及び三郎が乙川商店に勤務するようになってからは、同人らを介して双方の日常生活の様子を伝え聞くようになるとともに、四子及び五子も度々一郎のもとを訪れており、一郎はこれらの機会を通じて夏子が元気でいるかどうかを気遣っていた。

このように、双方の音信は十分に確保されていた。

(五) 一郎と夏子は別居状態にあったものの、離婚に関する話合い等を一切したことはなく、また、一郎は、知人に対し、常々「自分は夏子を幸せにしなければならない。」と述べており、同人には夏子との離婚の意思は全くなかったものである。

(六) 一郎の葬儀の際には、夏子は出席し、その冥福を祈念した。一郎の遺骨は、同人の故郷である滋賀県彦根市の円常寺に埋葬されているが、夏子は、病弱で参拝することができないものの、盆、年忌の供養及び墓地の管理等のため、同寺に送金して住職に供養を依頼しており、自宅においては、毎日、仏壇に向かって、一郎を供養している。

3  本件処分の適法性

以上の事実関係からすれば、夏子には離婚の意思が全くなかったことはもちろん、一郎と夏子との間には離婚の合意があったとは認められないうえ、一郎が夏子と離婚するための行動をとったこともない。一郎は夏子に生活費等を送金するなどし、夏子の一郎に対する経済的依存関係が存在していたのであり、また、双方の意思の疎通を表す音信等もあったのであるから、夫婦としての共同生活を廃止して当事者双方の生活をそのまま固定しているとも認められないのであって、届出による婚姻である一郎と夏子との婚姻関係はその実体を全く失っていたということはできない。

したがって、仮に一郎と原告とが内縁関係にあったとしても、原告は法五九条一項に規定する「配偶者」には該当せず、原告の裁定請求を排斥した本件処分は適法である。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1につき、(二)のうち、届出による婚姻関係がその実体を全く失なったものになっている場合にのみ、重婚的内縁関係にある者が法五九条一項の配偶者に該当するとの部分は認める。

2  同2の(一)は認める。

(二)のうち、一郎が昭和五七年二月まで夏子に送金していたことは認めるが、それ以降送金していたことは否認する。昭和五七年二月に乙川商店を有限会社に組織変更し、二男三郎を代表者としてからは夏子への金銭の給付を停止した。なお、昭和五七年二月以前の金銭給付にしてもそれは婚姻関係の維持存続を目的ないし前提とするものではなく、事実上の離婚後の給付に類するものである。

(三)のうち、夏子の入院費用を支出したことは認める(ただし、その金額は五〇万円ではない。)。一郎が夏子に軍人恩給を昭和五〇年ころまで受領させていたことは認めるが、それ以降も夏子に受領させていたことは否認する。

(四)のうち、夏子が昭和三一年ころ、一郎を訪問したこと、一郎と夏子の子供との間に行き来があったことは認めるが、一郎と夏子との間に音信のあったことは否認する。一郎は、別居してからは夏子宅を一度も訪れたことがなく、夏子が癌で入院した際も見舞いにも行っておらず、手紙を出したこともない。子供を介しての音信は夫婦の間の音信と同視することはできない。

(五)は否認する。一郎と夏子とは、別居するに際し、事実上離婚の話合いをした。一郎は夏子との離婚の意思はあったが、夏子が多額の金銭を受領しない限り離婚届を出さないと表明していたので、送金を続けていた。当時の判例からは、離婚訴訟を提起しても勝訴できるとは考えられなかったので、訴訟にも踏み切れなかったものである。

(六)のうち、夏子が一郎の葬儀に出席したことは認める。

第三  証拠<省略>

理由

一  請求原因1及び3の事実は、当事者間に争いがない。

二  重婚的内縁関係にある者が法五九条一項に規定する「配偶者」とされるための要件について

法五九条一項に定める、遺族年金を受けることができる配偶者は、法三条二項により「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者」を含むものであるところ、右の「事実上婚姻関係と同様の事情にある者」とは、社会通念上、夫婦としての共同生活と認められる事実関係を成立させようとする合意が当事者間にあり、かつ、その事実関係が存在するいわゆる内縁関係にある者をいうと解されるが、被保険者が届出による婚姻関係にありながら重ねて内縁関係をもった場合(以下「重婚的内縁関係」という。)において、そのいずれの関係の相手方を法五九条一項にいう「配偶者」として遺族年金の給付を受けることができる者とするかは、民法が法律婚主義を採用していることに照らし、また、一夫一婦制に対する社会一般の倫理観及び重婚的内縁関係についての社会的評価をも合わせ鑑み、被保険者において、重婚的内縁関係にある者との共同生活が長年継続して周囲に夫婦として扱われるに至り、その結果、届出による婚姻関係にある者との関係が疎遠になっていたとしても、届出による婚姻関係が依然その実体を留め、婚姻によって形成した生活身分関係が維持されている限り、届出による婚姻関係が優先し、届出に係る配偶者が右条項にいう「配偶者」に該当するものと解すべきである。

しかし、他方、遺族年金が被保険者の死亡した場合にその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とするものであること(法一条)に鑑みると、単に離婚手続をとらないまま放置されていて戸籍上の関係のみ残存しているにすぎなくなっている等、届出による婚姻関係がその実体を失って形骸化し、かつ、それが固定化して近い将来解消される見込みがない状態にあるときには、届出に係る配偶者は、もはや右条項にいう「配偶者」に該当しないものというべきであり、その場合には、重婚的内縁関係にある者が遺族年金の受給資格者である右「配偶者」と認められるものというべきである。

三  これを本件について検討する。

1  一郎は、昭和一二年六月二二日、夏子と婚姻し、同女との間に長男二郎(昭和一六年七月三〇日生)、二男三郎(昭和一八年一二月一三日生)、長女四子(昭和二二年三月二一日生)、二女五子(昭和二四年六月三日生)及び三男六郎(昭和二六年二月三日生)をもうけたこと、原告と一郎との間に、長女秋子(昭和三一年三月二二日生)、二女冬子(昭和三二年九月一四日生)三女北子(昭和三四年八月六日生)、四女南子(昭和三六年九月一八日生)が出生したこと、一郎が名古屋の出張先で仲居をしていた原告と親しくなり、昭和三〇年ころから夏子と別居するに至ったこと、一郎が乙川商店を設立したこと、一郎が昭和五七年二月まで夏子に送金していたこと、一郎が夏子に軍人恩給を昭和五〇年ころまで受領させていたこと、一郎が夏子の入院費用を負担したこと、夏子が昭和三一年ころ一郎を訪問したこと、一郎の葬儀が乙川電子工業株式会社の社葬として長男二郎が喪主となって行われたこと及び夏子が一郎の葬儀に出席したことは当事者間に争いがない。

2  右当事者間に争いがない事実に<証拠>を併せると、以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一)  一郎と夏子の別居に至る経緯

一郎(明治四五年二月一一日生)は、夏子(大正四年三月二五日生)と婚姻後、東京都内で所帯を持ち、その後、千葉県下に疎開して夏子及び五人の子供ら家族と暮らしていたが、昭和二七年ころ、出張先の名古屋で旅館の仲居をしていた原告と親しくなり、昭和二九年ないし三〇年には、上京していた原告のもとで同居を始め、夏子のもとには戻らなくなり、以後、夏子とは別居し、昭和五八年三月六日、旅先で急死するまで、原告と同居を継続した。

(二)  一郎と原告の関係

(1) 原告は、一郎と同居する以前から、同人に妻子のいることを知っていたが、夏子に要求どおりのまとまった金を支払ったうえで離婚手続をとり、原告と正式に結婚する旨の一郎の言葉を信じて、後記のとおり、一郎の指示に従い、夏子に送金をしていた。

(2) 一郎は、原告との同居を始めた当初、原告とともに屑拾いをするなどして生計をたてていたが、昭和三六年ころから、原告の親族からの資金をも投資して乙川商店の名称で廃棄物の処理等を業とするようになった。原告はその間、事業の資金を親族から用立て、また、仕事を手伝うなど一郎の事業活動に協力した。

(3) その後、一郎は、昭和四四年に、乙川電子工業株式会社、昭和五四年に、乙川機電株式会社を設立し、また、昭和五七年には前記乙川商店を法人化し、有限会社乙川商店を設立した。

一郎は、原告及び四人の娘とともに、乙川商店の事業所も兼ねている川崎市宮前区(当時は高津区)<住所略>所在の乙川電子工業株式会社の社屋の二階を住居としていた。

(4) 一郎は、自己の親類、友人、会社関係者、近隣等との交際にあたって、原告を妻として紹介し、また、昭和五一年には、知人の結婚式の仲人を原告とともに夫婦として務めるなどしていたほか、川崎市民生局福祉部福祉課から昭和五一年九月に交付された「福寿手帳」の家族欄には、原告を妻として記載していた。

そのため、一郎の友人、会社関係者等周囲の者は、原告を一郎の配偶者として扱っていた。

なお、一郎は、その間の昭和四二年三月六日、原告との間の四人の子供をそれぞれ認知した。

(三)  一郎と夏子の関係

(1) 夏子は、前記のとおり、昭和三〇年ころから一郎が全く夏子のもとに戻らなくなったため、一郎からの手紙を頼りにその所在を捜すなどしていたが、昭和三〇年五月ころから昭和三一年六月ころまでの間、結核で入院した後、一郎からの手紙でその所在を知り、豊島区要町の一郎を二度訪ね、帰宅を嘆願した。一郎は、これに応じなかったが、時折、手紙を出し、その後の所在を明らかにする一方、夏子に対し、不定期ではあったが、原告を介して生活費を送金し、また、長男が訪ねてくる度に金銭を渡していた。

(2) 昭和三八年春ころ、一郎は、長男二郎及び二男三郎を誘って、乙川商店で働かせたが、それ以降、三郎を介して夏子に対し、乙川商店の従業員に対する給料の形式を用いて、その居住地付近の地名である「大井」と記載した封筒に入れて、定額(当初は四万円、次第に増額し、最終的には一〇万円)を、盆暮れにも定額(最終的には各一〇万円)を生活費として渡していた。

そして、一郎は、有限会社乙川商店の代表者を三郎にした昭和五七年三月からは、節税を図る趣旨で、三郎と相談のうえ、夏子に対する一〇万円を三郎の給料に上乗せして、毎月三郎から夏子に交付させる方式で、その生活費を給付していた。

そのほか、一郎は、軍人恩給につき、受給権発生以来、恩給証書を担保に借金した昭和五七年ころまでの間、夏子に受領させていた。

(3) 一郎は、昭和三九年には、夏子ら家族のために、冷蔵庫、テレビを購入して与えたほか、五子及び六郎の学費を負担し、結婚式を挙げた長男、長女及び二女には、その費用または祝い品を出し、昭和四八年に、夏子が子宮癌で入院した際には、小遣いを渡し、その入院費を全額負担した。

(4) 夏子は、昭和三一年ころ、前記のとおり、二度ほど、一郎のもとを訪れて、帰宅を嘆願したことはあるが、その後は、一郎の住居が職場と同所であったため世間体を気にしたこともあって、一郎を訪ねることはなかった。また、一郎も、夏子が昭和三〇年に結核で入院中、見舞いに行ったほかは、夏子を訪ねることはなかったが、その後、前記のとおり、別居してまもないころではあるが、一時期、手紙を出していたほか、長男二郎、長女四子、二女五子の結婚式には父親として出席し、また、昭和四七年に、夏子の姉の危篤及びその葬式の際に、夏子らが居住していた右姉の住居を訪れるなど、冠婚葬祭の度に、夏子と顔を合わせていた。

また、一郎及び夏子は、長男二郎、二男三郎及び三男六郎においてそれぞれ一郎の経営する乙川商店等前記関係会社で働くようになって以降は、同人らを通じて、双方の近況を伝え聞いており、また、長女四子、二女五子も時折、一郎を訪ね、夏子の様子を伝えていた。

一郎は、子供らに対し、夏子の身を案じていること、夏子を大切にして欲しいことなどを、時折、口にしていた。

(5) 一郎は、原告と同居を始めた当初から、原告に問われる度に、原告に対し、夏子と別れるためには、夏子に多額の金銭を支払う必要があるからしばらく待つよう話し、また、原告の姉から、昭和四七年ころ、原告の入籍について追及された際も、金策がつくまで待って欲しい旨を返答し、夏子とは離婚する意向であることを表明していたものの、夏子に対しては、離婚についての話を持ちかけたり、調停等の法的手段を講じるなどの、婚姻関係を解消する方向への積極的な働きかけをしたことはなかった。

夏子においても、昭和三一年ころ、一郎に対し、五人の子供がいるから戻って欲しい旨を申し入れたものの、その後は、一郎との夫婦関係の修復についての努力をすることはなかったが、一郎に対し離婚についての話を持ちかけたこともなく、離婚の意思もなかった。

(四)  一郎の死亡後の状況

一郎の葬式は乙川電子工業株式会社の社葬としてとり行われ、長男二郎が喪主を務め、原告が、一郎の妻として弔問客の挨拶を受け、喪主と並んで遺影を抱いた。原告は、位牌を保管し、法要のほか墓参りのために毎年、滋賀県彦根市にある乙川家の菩提寺の墓に赴いている。

他方、夏子は、仮通夜及び葬式、また、彦根での四九日の法要にも出席しており、その後、墓参りには赴いてはいないが、盆暮れに菩提寺に供養料を送付してその供養を依頼しているほか、日常、仏壇に向かって、一郎の供養をしている。

以上の事実が認められる。

3  右認定事実に基づいて判断するに、一郎と夏子とは、婚姻関係にありながら、昭和三〇年ころから一郎が死亡する昭和五八年までの間、別居を継続し、他方、原告と一郎とは昭和三〇年ころから一郎が死亡するまでの約二八年間、終始同居して生計を営み、二人の間に生まれた四人の娘を共に養育し、苦労を共にしながら協力し合って極貧生活から脱し、一郎において一応の経済的地位を築いてきたものであって、その間、行動を共にして第三者に対し夫婦の関係にあることを示し、社会生活上は夫婦として認識されていたことが認められ、結局、原告と一郎とはいわゆる重婚的内縁関係にあったものということができる。

しかし、一郎と夏子との関係は、一郎の不貞により一郎が夏子のもとに戻らず別居して以来、一郎が死亡するまでの約二八年間、夫婦としての共同生活の実体を欠き、社会的生活単位としての機能を欠いており、夫婦としての感情の交流にも乏しくなっていたことは否めないところであるが、前記認定のとおり、夫婦の合意に基づいて別居に至ったものではなく、その後において、離婚の合意があったとも認めることはできない。

そして、前記認定のとおり、一郎は、別居した以降、夏子の入院先に手紙を出すなどしてその所在を教え、当初は不定期に、昭和三八年ころからは毎月定額の金銭を同人を介して送金するようになり、その額も次第に増していたこと、その間、夏子及び五人の子供等の生活を案じて、冷蔵庫等を買い与え、折々に子供の学費及び結婚資金を支出し、夏子の入院の際にその費用を支払うなどしていたこと、また、一郎と夏子とは、日常においての直接の交流はなかったものの、前記のとおり、相互の生活状況についてそれぞれ聞き及んでいたことなど、一郎は、別居を継続しているとはいえ、夏子ら家族の生活に関心を払い、一定の係わりを保ってきたものということができる。

すなわち、一郎は、約二八年間、夫婦としての最も基本的であるべき同居義務に反し、原告と夫婦同様の共同生活をしていたが、夏子を一切無視し、全くその生活に関心を持たなかったのではなく、その死亡の時に至るまで、夏子との婚姻によって形成した生活身分関係に係わっており、夏子においても一郎に依存した生活を送っていたということができるのであるから、一郎と夏子との婚姻関係がその実体を失って形骸化し、かつ、それが固定化して近い将来解消される見込みがない状態、すなわち事実上の離婚状態に至っていたと認めることができないものというべきである。

なお、原告は、一郎は夏子との離婚の意思を持っており、夏子においても金銭の給付を条件に離婚に応じる旨の意思を表明していたのであるから、一郎の金銭給付は、夏子の右意思に沿うもので、一郎の夏子に対する経済的給付は、事実上の離婚後の給付にあたり、婚姻関係の維持存続を目的とするものではない旨を主張し<証拠判断略>。しかし、前記のとおり、一郎が生前、原告及びその親族に対し、夏子との婚姻関係を解消する意思があることを表明していた事実は認められるものの、夏子において金銭給付を条件に離婚する旨の意思を表明していたことを認めるに足りる証拠はないこと(原告本人は、夏子は一郎に対して昭和三一年ころ一〇〇万や二〇〇万じゃ別れないと言った旨を供述するが、右供述は<証拠>に照らし採用できない。)、また、一郎の夏子に対する、前記認定のとおりの、継続的かつ次第に増額していった経済的給付、その他一郎の夏子ら家族の生活との係わりについての前記状況に照らし、前記のとおり、一郎と夏子との婚姻関係がその実体を失っているとはいえないから、一郎の金銭給付を事実上の離婚後の給付と同視することはできないものといわざるを得ない。

また、<証拠>によれば、一郎は、昭和五七年に、新設された宮前区役所で無料法律相談があることを知り、夏子との離婚請求が認められるかについて、原告を相談に行かせたことが認められるが、右時点において、一郎に、夏子との離婚の意思があったとしても、一郎が死亡するまで、一郎と夏子が前記認定のとおりの関係を保っていた以上、一郎と夏子との婚姻関係についての前記判断を妨げるものではない。

四  以上によれば、原告は一郎と内縁関係にあったものであるが、一郎の死亡の時に至るまで、一郎と夏子との法律婚関係が事実上の離婚状態に達していたということはできないのであるから、原告は、法五九条一項の「配偶者」に該当せず、遺族年金の受給権を有しないものといわざるを得ない。

したがって、原告の裁定請求を排斥した本件処分は適法である。

五  よって、原告の本訴請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担については行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 宍戸達徳 裁判官 北澤晶 裁判官 三村晶子)

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